日本にいた時から“語学力”にコンプレックスがあった。流暢に英語が話せたらカッコいいな、話せるようになりたいな。いつもそう思っていた。海外出張も多い雑誌社での仕事をしていたにもかかわらず、たいていの場合は通訳がついてくれたので現地での取材に困ることもなく、結局本格的に英会話を学ぶことがないまま、今日まで生きてきてしまった。そんな私だから、娘が通うことになったプーケットのインターナショナルスクールでは、非常に肩身の狭い思いをしている。
Hello! How are you today?
I’m fine Thank you! And you?
I’m fine too.
それ以上、会話が続かない。何かの用事で学校に行く時は、誰にも気づかれないように、知っている人に会わないようにと願いながら、足早に駐車場へと向かう。それでもときどき、クラスメートのママと思しき人が近づいてくると、ドキドキハラハラ、ケータイを取りだしてみたり、用もないのにトイレに逃げ込んだりしたこともあった。なんて失礼な!
こちらに来て3カ月目で、学校の先生との面談があった。
「何か聞きたい事はありますか?」
「いえ、あの、その...」。
私よりはまだ少し英語に慣れていた娘を同席させ、何とかその場をしのいだが、あの時のせつなさ、みじめさといったらない。
「英語も話せないのに、よくこの学校に来たわね。呆れちゃうわ」そんな声が聞こえてきそうだ。誰もがそう思っているに違いない。自己嫌悪でひどく落ち込んでいたある朝、イタリア人のシモーナが声をかけてきた。
「私、まったく英語が話せないの…」そういうと、
「気にしないで。私も最初は話せなかったの。それに、私だって日本語が話せない。日本語って英語よりぜんぜん難しいわ」
そんなようなことを言ってくれた。英語が苦手な人間への常套句だとは知りつつも、凝り固まっていた肩の力がスーッと抜けて、気持ちがほころんだ。
「ありがとうシモーナ…」
日本人のお母さん同士で集まると、よくこんな話しになる。
「学校にいれば子供は自然に英語を身につけるから心配ないわ。むしろここにいると、日本語がおかしくなっちゃうことの方が心配」
「ホントにそう。最近は日本語の本も読まなくなってしまったの」
「ウチは、漢字はもう諦めたわ。これからはパソコンで文章を書くから、漢字が書けなくてもなんとかなるかしら」
悩みというのは、まさに人それぞれだと思った。私は、インターネットやメールがこの先どんなに普及したとしても、ここぞというときには、美しい文字で手紙を書きたいと思うし、パソコンを使って文を書いている時に、たくさんの候補の中から正しい漢字を選ばなければならないことが少なくないので、漢字は必修だと考えている。
日本人として、正しい日本語を書き、話す。
願わくば、英語と日本語の両方が完璧であってほしい。そして日本人ならせめて、日本の新聞を読み、きちんと理解する。そこを最低線の常識と考えたいのだが。
余談ですが、プーケットのインターナショナルから、娘さんを日本の早稲田大学国際学部に進学させた知人がこんなことを言っていた。
「諸外国から入学してきた学生は、当然のように全員日本語が読めるし、書けるの。ものすごく勉強したんでしょうね」
もしも娘が日本の大学に進学したとして、両親ともが日本人である彼女の日本語がおぼつかなかったとしたら、今の私のように、肩身の狭い思いをするのではないだろうか。
先日、帰国した際に購入した本がある。
「読めますか?小学校で習った漢字」(サンリオ刊 守 誠著)
小学校で習う1006字の漢字だけで構成した熟語、同音異字・同訓異字など、カテゴリーごとにまとめた一冊で、子供はもちろん、大人にとっても興味深い内容だ。
漢字の間違い探しや四字熟語パズルなど、クイズ感覚で楽しめる工夫がなされているうえ、読み物としても秀逸。娘と一緒にページをめくりながら、こんな漢字、小学校で習ったっけ? などと焦りながらも、なるほど、この熟語はこういう意味だったのね、と日本語の奥の深さを再認識している。
by 南 光
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