戦争を知らない子供達へ
戦争体験者の生の声を聞く機会も、時の流れと共に、めっきり少なくなってきてしまいました。そこで、プーケット日本人会では、子どもたちに「戦争」の本当の姿を知ってもらおうと、体験者の話を聞ける場を設けることになりました。
講師 プーケット補習校スーパーバイザー・金塚英蔵氏
日時 2012年8月11日土曜日
場所 プーケット補習校2階教室
生まれたのは台湾で、戦争が終わった小学校4年生のときまで暮らしていました。
その頃、台湾は日本の領土でした。韓国や北朝鮮もそうでした。(子どもたちから驚きの声があがる)中国との戦争、日清戦争で日本が勝って台湾は日本のものになりました。
その後、日本は中国とまた戦争になり、アメリカとも戦争になりました。一番思い出すのは空襲です。爆撃の前に偵察機が銀紙をばら撒いていきます。どうしてだか、わかりますか?こうすると、飛行機が近づいてくる音が聞こえないのです。すぐ近くに来るまで、ほとんどわかりません。
戦争になると、いい人とか、悪い人とか、関係ありません。みんな悪い人になってしまいます。相手が子どもだからといって、助けてくれたりしません。子どもでも、飛行機から機関銃で狙われて殺されてしまいます。アメリカの人たちも、家に帰れば、周りに子どもがいて、その子どもたちを殺したりはしませんが、戦争になるとやってしまいます。毎日やられます。私のクラスには50人くらい生徒がいましたが、戦争が終わって集まったら、10人もいませんでした。みんな死んでしまったのでしょう。
戦争は、テレビや映画で見るのとは、まるで迫力が違います。大きな木(手振りで直径70~80センチくらいの幅を作りながら)に機関銃の弾が当たっただけで倒れてしまうんです。防空壕のことも、よく覚えています。一度、防空壕のすぐ近くに爆弾が落ちたことがありました。生臭い空気がもの凄い勢いで中まで入ってきました。爆風です。気がつくと入り口にいた兵隊さんが何人か死んでいました。
このときだけでなく、爆弾が落ちた後は死体がごろごろ転がっています。爆弾でやられた人の死体は、みんな裸です。爆風で、服が引き裂かれてしまうのです。爆撃の後は1時間くらい火薬の臭いが残っています。
最初は日本軍も反撃して、高射砲を撃っていましたから、アメリカの飛行機も弾が届かない高さから爆弾を落としていました。だから狙った場所には、なかなか命中しません。しかし、だんだん日本軍の弾が無くなってきて、撃てなくなると、操縦士の顔が見えるほど低いところを飛ぶようになってきました。これだと爆弾を落とすのも簡単です。自分の真上で落とされた爆弾は遠くで爆発しますから安心ですが、遠くで落とされた爆弾は、すぐ近くまで来て爆発します。
特攻隊の人たちも忘れられません。うちは家が広かったので、いつも10人くらい若い兵隊さんが泊まっていました。飛行機がないから、なかなか出撃できませんが、ときどき日本から飛行機が届くと、すぐに出て行って帰ってきません。みんな大学を卒業していたようです。兵隊さんたちは、悲しそうな様子はなかったようでしたが、私のお母さんは、「また死にに行く」と悲しそうにしていました。
アメリカのようなお金持ちの国と戦争してはいけないと思いました。日本は飛行機がなくなり、「赤とんぼ」と呼ばれる練習機しかなかったのですが、低く飛んでくるアメリカの飛行機を見たら、プロペラがありません。ジェット機でした。日本とは、ずいぶん差がありました。

食べ物でも苦労しました。サツマイモはありましたが、大きいだけで(手でラグビー・ボールくらいの大きさを作りながら説明)、味がほとんどありません。糠(ぬか)饅頭って、知ってますか?お米の糠でお饅頭を作ります。うどん粉をちょっとだけ入れますが、まずかったですね。学校の先生から、「大葉を採ってこい」といわれて持って行くと、それを乾燥させ粉にして、うどん粉を混ぜてパンを作りました。真っ黒のパンで、おいしくなかったです。
台湾では、憲兵と呼ばれる兵隊がとても威張っていました。台湾人を棒で叩いたり、子どもの私の目にも、「ああ、可愛そうだなあ」と思ったものでしたが、大人はそう思わなかったのかもしれません。戦争が終わるまでは、中国の国旗を家に置くことは許されませんでしたが、台湾人の友達の家に遊びに行くと、どの家にも必ずありました。子ども心にも、「これは、誰にも言っちゃあだめだ」と思い秘密にしました。ところが日本が負けて戦争が終わると一斉にどの家でも中国の国旗を門のところに掲げています。びっくりしましたね。
戦争が終わったときは、とても恐かったです。台湾人に酷い目に合わされるのではないかと思いました。日本は、恨まれているだろうなと思ったからです。ところが、台湾の日本人は、酷い目に合いませんでした。台湾にいた日本の偉い人たちが、鉄道、道路、電気、工場などをたくさん造ったり、ある人は自分のお金を使って、畑で作物を作るために必要な水を溜めるための大きな湖を造ったりして、台湾のために一生懸命働いたからです。戦争が終わった後、新しく中国からやってきた政府が、この人の像を壊そうとしたのですが、住民たちがみんなで隠して守ってくれたそうです。私もお母さんから、いつも、「台湾の人のために働きなさい」と教えられました。そういう人が多かったのだと’思います。だから日本に帰ってこれたのでしょう。
大陸から入ってきた中国軍を見て、あまりにみすぼらしいので、みんな驚いていました。天秤棒に鍋や釜をぶら下げて、汚い身なりでやってきたのです。日本の軍隊は、とても規則正しく立派に見えましたから、ますますそう感じたのでしょう。日本が負けて、まず学校で最初に覚えさせられたのが中国の国歌です。歌詞は忘れてしまいましたが、メロディーは今でも覚えています。
大陸からやってきた人たちを外省人、もともと台湾で暮らしていた人たちを本省人と呼びますが、外省人と本省人の争いは今でも続いています。その一つが言葉の問題です。大陸から来た中国政府の人たちは北京語という言葉を話し、台湾の言葉を学校で教えることを禁止しました。ですから、お年寄りは、孫と自分の言葉で話すことができません。
戦争が終わって、一番最初に兵隊が日本に帰りました。兵隊は、武器がなくても、戦う方法を知っていますから、身を守ることができますが、最後まで残されたのは、何も知らない一般人です。みんな帰るときは、財産を全部置いていかねばなりませんでした。仲間が1人でも財産を隠し持っているのがばれたら、全員帰れなくなってしまいます。だから、みんな置いて帰りました。私は、日本は寒いだろうと、上着だけは持って帰ることができました。帰りの船の上も恐かったです。機雷といって、ちょっと触れるだけで爆発する爆弾が海にいっぱい浮かんでいたからです。
今でも台湾には、ときどきお墓参りに行きます。お父さんとお兄さんは、爆弾で死にました。お兄さんの死体は見つかりましたが、お父さんの死体は見つかりませんでした。木っ端微塵だったようです。ですから、お父さんの遺骨はありません。お父さんとお兄さんのお墓も戦争に負けて、今では大きな公園になっています。その公園では、昔の仲間たちが日本の歌を歌ってくれたりします。
そう言って、金塚先生はハーモニカを取り出すと、「ふるさと」を演奏してくれました。
兎追いし 彼の山
小鮒釣りし 彼の川
夢は今も 巡りて
忘れ難き故郷
(うさぎおいし かのやま こぶなつりし かのかわ ゆめはいまも めぐりて わすれがたき ふるさと)
如何にいます 父母
恙無しや 友がき
雨に風に つけても
思ひ出づる 故郷いかにいます
(いかにいます ちちはは つつがなしや ともがき あめにかぜに つけても おもいいづる ふるさと)
志を 果たして
いつの日にか 帰らん
山は靑き 故郷
水は淸き 故郷
(こころざしを はたして いつのひにか かえらん やまはあおき ふるさと みずはきよき ふるさと)
子どもたちが、健やかに暮らせる世の中が、いつまでも続きますように・・・。
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